覚書

お別れに御礼、あるいは謝罪の言葉を、満足に告げる暇もなくあたらしい、完全に新しい春が堰を切ったように押し寄せ、いつの間にか、夏のすぐ側までわたしを流し去ってしまっていたことに気づかされたのは、久方ぶりに海を見に行った日のことだ。

新しい世界、新しい友人や師、新しい知に触れることはいつだってよろこびを伴うが唇も舌もうまく回らないような言葉に埋もれているうちに呼吸の仕方もなんだかよくわからなくなってしまい、儘ならさがくすぐったくなってわらいたいような、泣きたいような、しかしながら幸福に充たされた日々を送っている。

微睡みを帯びたひとびとの肩と肩の間から真っ直ぐに射しこむ朝の光や職場のブラインドから漏れる日差しの柔らかさに思わず目を細めてしまうこと、両親や友人と共にあたたかな食事をとる時間のこと、しんと黙っていることが苦手でどこまでも駆けていきたくなってしまう感情のこと、波飛沫の打ち寄せる遠い岬にいつだって焦がれていることでさえ、こうしている間にもどんどんと忘れてしまいそうになるが、覚えていられるといい。

大切なひとや物事のひとつひとつに、その気持ちを伝えることのできる年になりますように。

文字の森を泳ぐ|アジア諸文字のタイプライター展

 

いま、わたしが、この文章を書いているあいだにも数多の漢字がソフトの背後で蠢き、その一部が予測変換としてなめらかに画面上に出現し、ことばを紡ぎだす手助けをしてくれる。

幾度となく使用しているにもかかわらず、想像と異なった文字が現れると「どうして君という装置の記憶回路はそんなにも短いのかしらん」などとひとりごち、ことばの森より求める文字を拾いあげる。

東京外国語大学AA研1階資料展示室にて、11月27日(金)までやっている『アジア諸文字のタイプライター展』に足を運んだ。

印刷、活字、電子写植、ワープロソフトと形を変え、「書く」文字から「入力」する文字へ。ひとびとが「文字を伝えたい」という願いを込め、連綿と続けてきた営みの一滴にまなざしを寄せるような展示であった。

 

 

IMG_1537

その精緻さに溜息が出るような清代の木版活字、手書きでしたためられた書信とは異なる味わいを持つ『古活字版「大鏡」』、鮮やかな朱色のデーヴァナーガリー文字木製に迎えられる。

 

 

 

IMG_1547

触れることのできないタイプライターが実際に文字を打ち出す様子を写した映像が投影され、かたん、かたんとどこか懐かしさを憶える音がしずかな空間で響いている。

 

 

 

IMG_1544

チベット文字タイプライター

トライアンフ・アドラー、上海で改造? AA研GICAS 所蔵

西ドイツのトライアンフ・アドラー社製欧文用タイプに、上海でキーをつけたと思われる。文字は基本的に左から右に並ぶが「基本字」の上下に子音・母音記号がつく場合がある。キーボードカバー兼ケースが添えられており、持ち運びができる形であった。

IMG_1542

ビルマ文字タイプライター

オリンピア、AA研GICAS 所蔵

ビルマ文字はミャンマー連邦の公用語ビルマ語を書き表すほか、バーリ語の仏典も記した。基本字の上下に母音記号がついたり、子音文字が縦に重ねられたりとタイプでの処理が難しい字種であった。上下2弾、下が基本文字と数字、上は結合文字を含む「使用頻度の低い文字」をシフトで切り替える構造。

IMG_1545

実際に使われた言語研修テキスト(1974, AA研所蔵)。画像はチベット語。

 

IMG_1568.JPG

アラビア文字タイプライター

オプティマ、AA研文献資料室貴重書室所蔵

「コーランを正確に表記する文字」として整備されたため、イスラームの電波とともに広大な地域に広がった。それぞれの文字が位置によって異なる形(独立。語頭・語中・語末)をとるため、図形内には多数の字形を持つことになる。多くの字形を処理するように、また欧文タイプと逆に右から左へ打てるように工夫されている。

 

 

 

 

活字には文字体系ごとにメリット・デメリットがありました。例えば、比較的少ない字数で済むラテン語文字と異なり、漢字系文字では膨大な字種を用意する必要がありました。また、モンゴル系文字や日本の縦書きくずし字のように、「1語の中で連続する文字」を活字でつなげて再現することは技術を要します。

 

「結合文字」などの全てをキーに盛りコムには困難を伴い、「重ねうちをする」「本来分解されない1文字を分割し、部品として利用する(時に1文字を出力するために2回キーを叩くこともある)」「図形的に近い字型で妥協する」、「使用頻度の低い結合字はあきらめる」などの方策を取らざるを得なかった。

 

IMG_1576

IMG_1577

デーヴァナーガリー文字タイプライター(和文タイプ改造)

東京経営機株式会社、1980年製、AA研GICAS所蔵

1970年代後半、東京経営機製の和文タイプライターを改造して作られた2台のうち、唯一の現存物が展示してあった。和文タイプライターの名残としてひらがななどの入力機能も残されている。1980年代には東京外国語大学ヒンディー語研究室で教科書作りにも使用されたという。

 

 

 

上下左右にスライドする文字盤から「打ちたい文字の活字」を選び「押し出し式アーム」の上に移動させる、という手順を踏んでからようやく、アームに選びとった1文字を「跳ね上げさせて」印字する「和文タイプ」タイプライター。

「キーボード」と活字がアームを通して直結し、決まった文字を打つとその文字の活字が「跳ね上がり」印字させる「欧文タイプ」タイプライター。

 

 

欧文タイプライターを改造し、インド系文字を打つとき、「本来分解され得ない言語を分割する」というのはたとえば、ひらがなやカタカナを縦棒や横棒の複合物として捉えること、或いは漢字を部首別に切り取って並べることとどこか似ている。

一方で、文字を文字のままで抱えこんだ和文タイプライターは文字を探しだすのにも習熟が必要であり、文字の修正も、横転させばらばらに散らばってしまったのちは並べ直すのに専門の技術者を必要とするものだった。

かつていにしえのひとびとが石板などに刻みこんだり、筆記具を使ったりすることで綴られた言葉と、記号として切り離された言葉は、果たして同質の意味、同じ質量を帯びた言葉としてその存在を保ちつづけることができるのだろうか?

アルファベットのキー配列によって美しく整列したキーボードを叩きながら、ことばの明日を思う。

 

 

タイプ

http://www.aa.tufs.ac.jp/asiatypewriter2015/about.html

 

街路樹

 

いつの間にか十一月も半ばを過ぎていた。

しとしとと雨が降る。寒さと濡れた落ち葉の匂いだけが梅雨とは違うことを肌に報せてくれる。

 

朝晩は凍えるような寒さなのでコートだかマフラーをぐるぐる巻きにしてまるで真冬みたいに装って通学している。満員電車で通勤通学の人々に囲まれてうとうととまどろむのって心地いい。

とにかく寒い。寒くなると、ぽかりと空いた穴を埋めるようにことばが書きたくなることってあるかもしれない。

 

このごろは学生らしく論文執筆に追われている。

テーマに関連した歴史を記述してゆくとき、10年前の出来事でも、100年前の出来事であろうとはっきりとした諸問題の原因などわからない。ひとつの民族について、ひとつの定義について説明を果たすことすら困難で1990年代の出来事を述べようとしているのにもかかわらず、1800年代初頭から物語を書きはじめている「わたし」がここにいる。それすら不十分で落ち着かないような気持ちにさせられる。

 

原因も対処法も何もかもわからないけれど現代の「いま・ここ」で起きた出来事に執着せず遡ること、ひとつでもこと細かな出来事を知り、間接的にでも血肉とすることー経験していないものごとの「翻訳不可能性」を常に脳髄に意識させながらー出来事を可能な限り多くの立場からの情報をもとに俯瞰し、想像すること、そして自分なりに考え続けること。

 

祈りに変え、わたしにはそれくらいしかできないだろう。

あえかなひかり、風、それにおんなたちのうたげ | 「もうひとつの輝き 最後の印象派 1900-20s Paris」展

 

もうひとつの輝き 最後の印象派展を訪れた。

 

会場に入ると物憂げな、微睡むような微笑みを浮かべる女たちと目が合う。

エドモン・アマン=ジャン、エルネスト・ローランらソシエテ・ヌーヴェルの牽引者が繊細な筆致で描いた輪郭をみつめていると嘗て一年を過ごした葡萄牙留学中に心を奪われた祭りの夜のおんな、真冬の漁師町の海辺でストールを巻きつけ険しい表情をしたおんな、春の日差しのなかでピクニックに出掛けたおんななどかつて邂逅したおんなたちが次々と立ち現れ消えゆく。

 

エドモン・アマン=ジャン 《幻想》

エドモン・アマン=ジャン 《幻想》1918年?

油彩/板 個人蔵

 

エルネスト・ローラン《背中》

エルネスト・ローラン《背中》1917年

油彩/キャンヴァス 64×53cm

 

アンリ・マルタン《野原を行く少女》

アンリ・マルタン《野原を行く少女》1889年 油彩/キャンヴァス 170×130cm

歩くたびに花片が瓦解する。纏うのではなく幾重にも巻かれ吹きこぼれるパンジーやスイートピーといった花々、右奥の老夫婦は息をとめて春が来るのを眺めている。朝露のまだ薄ぼんやりとした大気のなかで彼女のまわりだけは清浄である。陽光の暖かさとは対照的に表情は固く、髪もきつく編まれている。まるで灯火のように薔薇の蕾を掲げ、おんなはどこを目指すのか。

 

 

アンリ・ル・シダネル 《日曜日》

アンリ・ル・シダネル 《日曜日》 1898年

油彩/キャンヴァス 112.5×192㎝

ドゥエ、
シャルトルーズ美術館 photo © Yves Le Sidane

 

 

やすらぎの安息日

彼は誰時のひかりと蜂

それから黄金の樹々にさんざめく鳥たち

やすらぎの安息日

ましろの衣に身を包む子らよ

街は薄青の靄にきらめく

此処はフランデレン、ポプラの小径

海は砂浜を抱き寄せる

Contemporary Belgian literature/Jethro Bithell(拙訳)

 

 

 

 

なかでも私は、上に記したマックス・エルスカンの詩、『生への賛歌』に着想を得たとされる1mの大作、アンリ・ル・シダネル『日曜日』に心奪われた。

乳白色の薄靄の中、紫陽花の花が一面に敷きつめられたような小高い丘と若葉色と黄金色の入り混じるポプラの樹々、その眼下には街の全景が広がる。まだ夢うつつの街をで薄紅に染まった河が囲み、流れを続ける。丘にはうら若き乙女たちが集う。彼女らは赤毛の髪をほどいたままにしたり、うなじを見せるよう結いあげたりハーフアップにしたりと思い思いに美しく装い、柔らかなひだや切り返しなど意匠の異なる白いパフスリープの長袖ドレスを身につけている。

基にされた詩篇のなかでは、白い衣を着た子供達の描写があるので、アンリ・ル・シダネルの心象世界に住まう乙女たちが描きだされたと捉えることもできるが、カトリックなどではその年八歳を迎える少女が白い衣を纏い五月の初聖餐式に参加するというが、それより年嵩であるこの画の乙女たちは堅信に参加する一行であると想像することもできる。ともすればシルエットと見間違えてしまいそうにそっと描かれた人影は朝の光をうけ淡やかに発光しているようだ。画面中央でこちらを向き口許を綻ばせる乙女の唇の朱が目に鮮やかだ。これまでは印象派と聞くとモネやルノワールのような爽やかな陽光の下の絵画を思い出す場面が多かったがル・シダネルのこの絵画によって新たな印象派を知ることができた。二度、三度と絵画を見返す度、夜が明け、陽が昇ってゆくように感じられる。

 

パリでの修行時代を終えたアンリ・ル・シダネルはフランス国内をはじめ、イタリアのヴェネツイアやフィレンツェ、ベルギーのブリュージュへの旅を続けながら、「光」の表現を探しもとめた。

 

彼は、その中で生きているものの存在を充分に喚起させる、

事物の無音の調和を創造した。Camille Mauclair/1872-1945

 

『日曜日』が発表された1898年は、シダネルが両親の反対を押し切って、のちの妻となるカミーユと共にベルギーのブリュージュへ逃避行していた時期と重なる。先述したマックス・エルスカンがベルギーの有名な詩人であったこと、フランデレンの地名からの連想と繋がり、絵の舞台はブリュージュであったのではないかと予想される。

 

 

 

 

第1章 エコール・デ・ボザールの仲間たち

第2章 北部の仲間たち

第3章 「バンド・ノワール(黒い一団)」の仲間たち

第4章 ベルギーの仲間たち

第5章 遅れてやってきた仲間たち

第6章 最後に加わった仲間たち

 

1900年、世紀末のパリはベル・エポックとも呼ばれ、数多の芸術が花開きフランスを満たした時代でもあった。その雰囲気を代表する世代のひとつに『画家彫刻家新協会(ソシエテ・ヌーヴェル)』があり、この展覧会は彼らにひかりを当てた本邦初の巡回展という。展覧会の構成は以上の通りである。

ソシエテ・ヌーヴェルは同時代の画家集団とは異なり、主義主張を同じくする構成員によって作られたグループというより、展覧会の構成が「仲間たち」という表現で淡く彩られているように「メンバー相互の友情関係」に支えられていた。彼らはそれぞれが独自のスタイルを確立し深めてゆくことを目指した。ただ自然への愛は他メンバーにも浸透していたと考えられている。メンバーのひとりであったアマン・ジャンが「(自然は、)それがすべてであるひとつの感覚に従って調和されている」といった言葉を残したこと、田舎にそれぞれ家屋を有し制作活動を続け、春の内覧会が近づくとパリのアトリエにさながら渡り鳥のように舞い戻ってくる彼らの創作スタイルからも伺い知ることができる。

彼らは外界の身近な世界や「自然」を徹底的に観察することで、その中の内的感覚、世界に呼応する事物、色彩の付与された形態を見出そうとしてきた。しかし象徴主義以来、「自然」への疑念や伝統への反発とともに台頭した革新的なモダニズムに覆い尽くされるように、「自然」を愛したアンティミストの画家たちは1920年代に役割を終え、最後の印象派として歴史にその煌めきのみを残した。

 

 

 

 

きんいろの雨

 

1085439_10201474324452537_1361018771_n

 

 

 

わたし自身と、わたしを取り巻く人々のことについて語るのは、どちらかといえば得意で。

社会のことについて語るのは、どちらかといえば苦手だ。

 

 

雨が、降りそれを恵みと喜ぶ人々が居れば、かなしむひとがいるように。

実際にはもっと複雑に様々な人々の思惑が絡まりあい、

それぞれが、自らの立場からよかれと思って事を進め、何が正義とも言いきれず、かといって悪役にもなりきれないまま日々を暮らしている。

そのような人間の在りかたがなんだかんだわたしはすきであるしすべての、人々を掬いあげることばを発することなど不可能であるので、話題にすることを避けてきただけなのかもしれない。

 

 

 

オリンピックが、東京に決まった。

 

 

 

運動は苦手だが、観ることはすきだ。

わたしとは、別の力を持って生まれてきた人々。

ひとつのものを目指し自らを研ぎすまし続けるその姿には憧れるし、尊敬している。

 

 

普段であればすぐ通学路へとはじけるように駆けだしてゆき思い思いに、友人宅や自分の家を目指しているところであるのに。

 

朝から、どことなく落ち着かずお互いの顔に秘められた期待を探りながら、迫りくるサッカーの試合について予想を言いあって。そのまま、教育実習の先生や友人達と学校に残り備えつけのちいさなテレビを囲み、日本人選手たちがどこかの国の人々と汗を流し戦っている様をみつめ、日がすっかり暮れるまで応援した、そのような一日が、一週間があった記憶がある。

あれはたしか、小学生のときだった。

 

試合の結果や、そのとき手を取りあった友人の顔や、実習生の名、日々が朧に流れさってしまった今もあの、非日常の手触りと熱狂ともいえる感情のことだけは憶えている。

 

 

高校生のときはカナダで。

カヌーの選手と会い、首にかかる金メダルを触らせてもらったときには興奮でゆびが震えた。

目をあげて、選手と視線を交わすのも躊躇われるくらい彼が、ひかりを纏っているようなきがした。

 

 

たしかに、スポーツには心を躍らせるある種の力がある。

だから、一日本人として、生きているうちにオリンピックが日本へ、自分の住む町へやってくることはうれしい。

けれど朝、首相のスピーチや結果をみたときから、ざわざわするものが心にはあった。

賛成と反対の声が行き来するTwitterをぼんやりと眺めているうち、

ざわざわとする感情に、寄り添うような呟きにわたしは突き当たった。

 

写真

 

彼/彼女が語るのは荒唐無稽な夢だと、ひとはわらうかもしれない。

日本には、やはり様々な人々が居て、いつも復興だけを考えているわけにはゆかないのかもしれない。

もしも数年経って、日本が手遅れになってしまうなら、アジアにでもヨーロッパにでも、それこそ地球の反対側にでも、とおく移住してしまおうかと考えるような、恩知らずなわたしがいえることなどそもそも、なにもないのかもしれない。

 

ただ、復興に対する希望をもオリンピックのテーマとして掲げるなら。

福島だけ切り離して、東京は安全ですからなどと背を向けずに。

これくらい無謀な夢を掲げ、事態の収束に向け、行動を取っていってもよかったのではないかとおもうのだ。

12年後でも、40年後でも、100年後でもこれが実現するのなら、ざわざわとどこかが鳴ることもなく、手放しでオリンピックを喜べたような気がするのだ。

 

その方向には向かわなかった日本を、すこしだけ、かなしいとおもう夜。

群青

四月末、わたしは。

夏には日本を去って、見知らぬ土地で暮らしてゆく高校生たちの瞳の中に、君たちがこれからでかけてゆく「交換」留学という名のプログラムの、「交換」という言葉にはどんな意味があるのだろう、と問いかけていた。
動揺し、でも頭を熱くさせすこし高揚した調子でことばを紡ぐ彼らからは、しずかに、しずかに波紋が広がるのがみえる。
冒頭の問いの「交換」に、わたしなりの答えを与えるとしたら。
今まで自分のなかに根付いてきた、意識との交換だと答えるだろう。

自分のなかで膨れあがる先入観や、経験を伴わない知識を、手のひらでそっと粉々に砕き、あたらしく誰かからもらった欠片をはめ込んであげるように。

関わった相手のなかにも、自分の欠片を残して、そうして、すこしづつ生まれ変わりながら日々、わたしって生きているんじゃないか、とおもうのだ、今のところは。
そう、脱皮はできないけれど身体の細胞は、生まれ変わっているように。

それは、留学に限った話ではなく、旅をして見知らぬ土地の風景や匂いのなかで得るものでもあるだろうし、日本の、東京という街で根をはって、日々出会ってゆく人との関わりのなかでも起こっていることだとおもう。

日本人でも他の国のひとでもやっぱりそれは同じことで。
慣れないことばには灯がともらず、こころも、からだも疲弊してしまっていた時期があって。くるくるとよく笑い、お腹はすいてないの、おばあちゃんが今夜も魚を煮込んであなたのことを待っているよ、と温かな食卓に迎えいれてくれた友人の、母国としての中国を愛してしまったこと、いまでもときどき夢にあの日の食卓がでてくること、だから彼の国が声高に非難される声を聞くとなぜだか自分のことのようにくるしくなる。つい、むきになり反論してしまったあとの沈黙に胸が、掴まれるようにくるしくなって、しゃがみこみたくなってしまうこともある。

異文化理解であるとか、他者理解であるとか難しい言葉に彩られた交じわりの前に。
人一倍要領が悪いし、地に足がついていないようだし、生きているのか死んでいるのかもわからないしと安否を心配され、いつも、壁にぶちあたってるようだけどなんだか、あの子をみていたら力をもらえるよね、なんて。ひとりの「日本人」である前に、学生である前に、ひとりの人間として、欠片として、記憶に残るような存在でありたい。
誰かの、力になってきたというよりも助けられてきた、人生だったようにおもう。分岐点を思い返すたびに後悔し、他人の所為にしてみたりそのたびに、幾らでも話を聞いてくれる恩師や、友人がいたり、目指していたくなるような人が前を走っているのだ。

夕方、後輩に言葉を投げかける一方、どこかでは自分が救われていることに気づいていた。
自分が進んでゆくことに、周りを置き去りにしてでも主張を通したり、学び手に入れることに必死だったけれど、やっとすこし、後ろにさがり俯瞰できるようになってきたので。
忘れた頃に流れていた涙が、やっとぽろぽろと零せるようになってきたので。

これからは、周りのひとを引き上げられるひとになれたら、がんばって、と前や後ろから声をかけるのではなく、肩に手を載せて一緒に歩いていけるようになれたらいい、笑いたいときは声をあげてわらって、美しいものは指で指し示して、わたしの知っていることは教えてあげられたらいいし、これからも、あなたがたから学び続けてゆきたい。知らないことはおそろしくて、けれど手をのばせることが、一秒、生を割くたびに、変化してゆけるようで嬉しい。

 

ああ、なにになりたいかって、善きものに、なりたい。

夜に寄せて

ただ呼吸を、整えるために走らせていたペンが、いつの間にか夜を描くために走り出していることに気づく。

階段を、降りた先の夕焼けに立ち止まってみたり、教室の窓の外で雨上がりに映えるみどりの葉々を横目に浅い眠りに落ちてみたり、バスに揺られながら背後で交わされるひそやかな母子の遣りとりに耳をかたむけたり日常に追われながらそれでも、何の意味もなく、なくしてしまったとて影響の無い、ことがらを振り払えない自分が居ることにもまた気づかされる。

愛が、たしかにそこにあることもわたしにはそれをどうしようもないことも、遠くとおくへと駆けてゆきたい衝動が何時だって胸のなかで渦巻いていることも、さくさくと鳴る音がすきでレタスをくちにするひとがいるとつい見てしまうことにも幼い頃、思い描いていたよりもずっとわたしにはちからがなく、どうして、と問いを放ちながら語尾には答えを含んでいることにも、昨日よりも、今日のほうがより賢いかおをして鏡に映ることができることにも夜が、こうして更けてゆくのをちいさくなって待っているしかないことにも、気づいている。

気づく、というのは崇高で身勝手な行為だとおもう。