文字の森を泳ぐ|アジア諸文字のタイプライター展

 

いま、わたしが、この文章を書いているあいだにも数多の漢字がソフトの背後で蠢き、その一部が予測変換としてなめらかに画面上に出現し、ことばを紡ぎだす手助けをしてくれる。

幾度となく使用しているにもかかわらず、想像と異なった文字が現れると「どうして君という装置の記憶回路はそんなにも短いのかしらん」などとひとりごち、ことばの森より求める文字を拾いあげる。

東京外国語大学AA研1階資料展示室にて、11月27日(金)までやっている『アジア諸文字のタイプライター展』に足を運んだ。

印刷、活字、電子写植、ワープロソフトと形を変え、「書く」文字から「入力」する文字へ。ひとびとが「文字を伝えたい」という願いを込め、連綿と続けてきた営みの一滴にまなざしを寄せるような展示であった。

 

 

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その精緻さに溜息が出るような清代の木版活字、手書きでしたためられた書信とは異なる味わいを持つ『古活字版「大鏡」』、鮮やかな朱色のデーヴァナーガリー文字木製に迎えられる。

 

 

 

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触れることのできないタイプライターが実際に文字を打ち出す様子を写した映像が投影され、かたん、かたんとどこか懐かしさを憶える音がしずかな空間で響いている。

 

 

 

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チベット文字タイプライター

トライアンフ・アドラー、上海で改造? AA研GICAS 所蔵

西ドイツのトライアンフ・アドラー社製欧文用タイプに、上海でキーをつけたと思われる。文字は基本的に左から右に並ぶが「基本字」の上下に子音・母音記号がつく場合がある。キーボードカバー兼ケースが添えられており、持ち運びができる形であった。

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ビルマ文字タイプライター

オリンピア、AA研GICAS 所蔵

ビルマ文字はミャンマー連邦の公用語ビルマ語を書き表すほか、バーリ語の仏典も記した。基本字の上下に母音記号がついたり、子音文字が縦に重ねられたりとタイプでの処理が難しい字種であった。上下2弾、下が基本文字と数字、上は結合文字を含む「使用頻度の低い文字」をシフトで切り替える構造。

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実際に使われた言語研修テキスト(1974, AA研所蔵)。画像はチベット語。

 

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アラビア文字タイプライター

オプティマ、AA研文献資料室貴重書室所蔵

「コーランを正確に表記する文字」として整備されたため、イスラームの電波とともに広大な地域に広がった。それぞれの文字が位置によって異なる形(独立。語頭・語中・語末)をとるため、図形内には多数の字形を持つことになる。多くの字形を処理するように、また欧文タイプと逆に右から左へ打てるように工夫されている。

 

 

 

 

活字には文字体系ごとにメリット・デメリットがありました。例えば、比較的少ない字数で済むラテン語文字と異なり、漢字系文字では膨大な字種を用意する必要がありました。また、モンゴル系文字や日本の縦書きくずし字のように、「1語の中で連続する文字」を活字でつなげて再現することは技術を要します。

 

「結合文字」などの全てをキーに盛りコムには困難を伴い、「重ねうちをする」「本来分解されない1文字を分割し、部品として利用する(時に1文字を出力するために2回キーを叩くこともある)」「図形的に近い字型で妥協する」、「使用頻度の低い結合字はあきらめる」などの方策を取らざるを得なかった。

 

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デーヴァナーガリー文字タイプライター(和文タイプ改造)

東京経営機株式会社、1980年製、AA研GICAS所蔵

1970年代後半、東京経営機製の和文タイプライターを改造して作られた2台のうち、唯一の現存物が展示してあった。和文タイプライターの名残としてひらがななどの入力機能も残されている。1980年代には東京外国語大学ヒンディー語研究室で教科書作りにも使用されたという。

 

 

 

上下左右にスライドする文字盤から「打ちたい文字の活字」を選び「押し出し式アーム」の上に移動させる、という手順を踏んでからようやく、アームに選びとった1文字を「跳ね上げさせて」印字する「和文タイプ」タイプライター。

「キーボード」と活字がアームを通して直結し、決まった文字を打つとその文字の活字が「跳ね上がり」印字させる「欧文タイプ」タイプライター。

 

 

欧文タイプライターを改造し、インド系文字を打つとき、「本来分解され得ない言語を分割する」というのはたとえば、ひらがなやカタカナを縦棒や横棒の複合物として捉えること、或いは漢字を部首別に切り取って並べることとどこか似ている。

一方で、文字を文字のままで抱えこんだ和文タイプライターは文字を探しだすのにも習熟が必要であり、文字の修正も、横転させばらばらに散らばってしまったのちは並べ直すのに専門の技術者を必要とするものだった。

かつていにしえのひとびとが石板などに刻みこんだり、筆記具を使ったりすることで綴られた言葉と、記号として切り離された言葉は、果たして同質の意味、同じ質量を帯びた言葉としてその存在を保ちつづけることができるのだろうか?

アルファベットのキー配列によって美しく整列したキーボードを叩きながら、ことばの明日を思う。

 

 

タイプ

http://www.aa.tufs.ac.jp/asiatypewriter2015/about.html

 

あえかなひかり、風、それにおんなたちのうたげ | 「もうひとつの輝き 最後の印象派 1900-20s Paris」展

 

もうひとつの輝き 最後の印象派展を訪れた。

 

会場に入ると物憂げな、微睡むような微笑みを浮かべる女たちと目が合う。

エドモン・アマン=ジャン、エルネスト・ローランらソシエテ・ヌーヴェルの牽引者が繊細な筆致で描いた輪郭をみつめていると嘗て一年を過ごした葡萄牙留学中に心を奪われた祭りの夜のおんな、真冬の漁師町の海辺でストールを巻きつけ険しい表情をしたおんな、春の日差しのなかでピクニックに出掛けたおんななどかつて邂逅したおんなたちが次々と立ち現れ消えゆく。

 

エドモン・アマン=ジャン 《幻想》

エドモン・アマン=ジャン 《幻想》1918年?

油彩/板 個人蔵

 

エルネスト・ローラン《背中》

エルネスト・ローラン《背中》1917年

油彩/キャンヴァス 64×53cm

 

アンリ・マルタン《野原を行く少女》

アンリ・マルタン《野原を行く少女》1889年 油彩/キャンヴァス 170×130cm

歩くたびに花片が瓦解する。纏うのではなく幾重にも巻かれ吹きこぼれるパンジーやスイートピーといった花々、右奥の老夫婦は息をとめて春が来るのを眺めている。朝露のまだ薄ぼんやりとした大気のなかで彼女のまわりだけは清浄である。陽光の暖かさとは対照的に表情は固く、髪もきつく編まれている。まるで灯火のように薔薇の蕾を掲げ、おんなはどこを目指すのか。

 

 

アンリ・ル・シダネル 《日曜日》

アンリ・ル・シダネル 《日曜日》 1898年

油彩/キャンヴァス 112.5×192㎝

ドゥエ、
シャルトルーズ美術館 photo © Yves Le Sidane

 

 

やすらぎの安息日

彼は誰時のひかりと蜂

それから黄金の樹々にさんざめく鳥たち

やすらぎの安息日

ましろの衣に身を包む子らよ

街は薄青の靄にきらめく

此処はフランデレン、ポプラの小径

海は砂浜を抱き寄せる

Contemporary Belgian literature/Jethro Bithell(拙訳)

 

 

 

 

なかでも私は、上に記したマックス・エルスカンの詩、『生への賛歌』に着想を得たとされる1mの大作、アンリ・ル・シダネル『日曜日』に心奪われた。

乳白色の薄靄の中、紫陽花の花が一面に敷きつめられたような小高い丘と若葉色と黄金色の入り混じるポプラの樹々、その眼下には街の全景が広がる。まだ夢うつつの街をで薄紅に染まった河が囲み、流れを続ける。丘にはうら若き乙女たちが集う。彼女らは赤毛の髪をほどいたままにしたり、うなじを見せるよう結いあげたりハーフアップにしたりと思い思いに美しく装い、柔らかなひだや切り返しなど意匠の異なる白いパフスリープの長袖ドレスを身につけている。

基にされた詩篇のなかでは、白い衣を着た子供達の描写があるので、アンリ・ル・シダネルの心象世界に住まう乙女たちが描きだされたと捉えることもできるが、カトリックなどではその年八歳を迎える少女が白い衣を纏い五月の初聖餐式に参加するというが、それより年嵩であるこの画の乙女たちは堅信に参加する一行であると想像することもできる。ともすればシルエットと見間違えてしまいそうにそっと描かれた人影は朝の光をうけ淡やかに発光しているようだ。画面中央でこちらを向き口許を綻ばせる乙女の唇の朱が目に鮮やかだ。これまでは印象派と聞くとモネやルノワールのような爽やかな陽光の下の絵画を思い出す場面が多かったがル・シダネルのこの絵画によって新たな印象派を知ることができた。二度、三度と絵画を見返す度、夜が明け、陽が昇ってゆくように感じられる。

 

パリでの修行時代を終えたアンリ・ル・シダネルはフランス国内をはじめ、イタリアのヴェネツイアやフィレンツェ、ベルギーのブリュージュへの旅を続けながら、「光」の表現を探しもとめた。

 

彼は、その中で生きているものの存在を充分に喚起させる、

事物の無音の調和を創造した。Camille Mauclair/1872-1945

 

『日曜日』が発表された1898年は、シダネルが両親の反対を押し切って、のちの妻となるカミーユと共にベルギーのブリュージュへ逃避行していた時期と重なる。先述したマックス・エルスカンがベルギーの有名な詩人であったこと、フランデレンの地名からの連想と繋がり、絵の舞台はブリュージュであったのではないかと予想される。

 

 

 

 

第1章 エコール・デ・ボザールの仲間たち

第2章 北部の仲間たち

第3章 「バンド・ノワール(黒い一団)」の仲間たち

第4章 ベルギーの仲間たち

第5章 遅れてやってきた仲間たち

第6章 最後に加わった仲間たち

 

1900年、世紀末のパリはベル・エポックとも呼ばれ、数多の芸術が花開きフランスを満たした時代でもあった。その雰囲気を代表する世代のひとつに『画家彫刻家新協会(ソシエテ・ヌーヴェル)』があり、この展覧会は彼らにひかりを当てた本邦初の巡回展という。展覧会の構成は以上の通りである。

ソシエテ・ヌーヴェルは同時代の画家集団とは異なり、主義主張を同じくする構成員によって作られたグループというより、展覧会の構成が「仲間たち」という表現で淡く彩られているように「メンバー相互の友情関係」に支えられていた。彼らはそれぞれが独自のスタイルを確立し深めてゆくことを目指した。ただ自然への愛は他メンバーにも浸透していたと考えられている。メンバーのひとりであったアマン・ジャンが「(自然は、)それがすべてであるひとつの感覚に従って調和されている」といった言葉を残したこと、田舎にそれぞれ家屋を有し制作活動を続け、春の内覧会が近づくとパリのアトリエにさながら渡り鳥のように舞い戻ってくる彼らの創作スタイルからも伺い知ることができる。

彼らは外界の身近な世界や「自然」を徹底的に観察することで、その中の内的感覚、世界に呼応する事物、色彩の付与された形態を見出そうとしてきた。しかし象徴主義以来、「自然」への疑念や伝統への反発とともに台頭した革新的なモダニズムに覆い尽くされるように、「自然」を愛したアンティミストの画家たちは1920年代に役割を終え、最後の印象派として歴史にその煌めきのみを残した。

 

 

 

 

想像すること、そして甘美なはばたき|『トポフィリー夢想の空間ー』展

一枚の絵を、目にしたとき。

不思議な世界にまつわる話や、見知らぬ人間たちと書物の中で出会ったとき。

 

 

いまだ目にしたことのない世界を、わたしたちは思い描く。

鮮やかに色づき、音を奏で、ときには香りを放つ甘美な世界を思い浮かべる力を人びとは、想像力と名付けた。

 

想像力は、場所とも密接に結びつく。

古の、廃墟のなかで空を仰ぐとき。わたしたちはかつてその場所で同じように空を見上げた先人達を思う。特別な、場所でなくとも構わない。押し入れ、家の側で大きく枝を広げた木、学校の裏庭で陽を浴びた階段。すべての場所に、秘密の扉がとりつけられ、ひとたびそれを開けると、わたしはわたしだけの王国に足を踏み入れることができた。

 

いつも、不思議に思うのだ。

はじめて、思い浮かべたものであってもまるで最初からそこにあったかのように匂いたつものたちー想像力によってつくられたーはいったい、どこからやってくるのかと。

 

東京帝国大学建築学科で教鞭をとっていた内田祥三と清水幸重が建築に携わり、2000(平成12)年に国から登録有形文化財の登録を受けた東京大学駒場キャンパスの、1号館時計台がこの展覧会の舞台だ。

 

そのため作品の鑑賞は、屋根裏部屋を目指し、階段を登ることからはじまる。

 

螺旋階段。

 

幼い頃、父に連れられはじめて行った展覧会は「ガウディ かたちの探求」だった。帰宅してから、すっかり螺旋のうつくしさに取り憑かれたようになったわたしはその冬、黄金比を用いて、最もうつくしい形で連なり続いてゆく円を描き出し、それを慎重に木に彫り込み、版画として永遠の命を与えた。

 

淡く埃を被った黒色のカタログを家の本棚から取り出し、膝上に広げる。アンモニアナイトの化石のようにセピア色をした、螺旋階段が表紙に横たわる。

 

あのときもそうであったように螺旋は、色褪せることがない。

 

 

「この螺旋によって、夢想家は大地の奥底からぬけだし、高所の冒険に足をふみいれる。事実夥しい、狭苦しいまがりくねった小路をとおりぬけて、読者はやっと一つの塔へでる。」(GB74

 

階段のところどころにちりばめられたバシュラールのことばを、読み解きながらわたしは上を目指す。ひかりが、頭上から柔らかに射し込む。

 

立ち止まり、後ろを振り返れば、今まで登ってきた螺旋を臨むことができる。昇る、という行為において、螺旋ほど、うつくしい階段はないように思う。わたしは俯いて、足の軌跡が円を描くのをみる、すると自分が螺旋の循環の一部であるかのように感じる。かつて、ガウディは『樹木は常に「外側と内側」の境界線をもたない』と云った。緩やかに曲がりくねる階段とわたしがまるで、同じ生き物であるかのように感じてわらう。それは夏休みの、誰も居ない昼下がり。静寂のなかで足音だけが響く。わたしを追い越して駆け上がっていった足音たちは、塔の頂上まで辿り着いてもう、戻ってこない。音たちの軌跡は螺旋だったろうか。

 

なぜ、上を目指すのだろう。そして、上にはなにがあるのだろう。もやもやと心の中に膨れ上がり零れ落ちそうだったそのような疑問は、螺旋階段を登ってゆくうちに昇華されてゆく。その恍惚は、山を登ることに似ている。

 

やがてわたしは屋根裏部屋の扉を開ける。

 

ごろごろと球が、転がる音が聞こえる。

足を踏み入れたわたしを待っていたのは内林武史の《軌道終生》であった。永遠に、球がレールの上を廻り続けている。いつかは、終わりがくるのだと判っていながらも、目を離すことができない。どこかで道を、はずれてしまうのではないか、裏に回った球は二度と、帰ってこないのではないか、と不安は消えない。砂時計にしても、油がつぎつぎと上へ繰り出される時計にしてもそうだ。私は、永遠、ということばに、感覚にとても弱い。

 

「このように存在においては、すべてが循環であり、すべてが迂回であり、回帰であり、持続運動である」(GB359)

 

視線を離すと、窓際に、かつての記憶に満ちた壜が並べられているのがみえる。気泡の、ひとつひとつに未だ見ぬ物語をおもう。射し込んだひかりが、硝子を通り抜け戸惑ったように拡散してゆく。

 

香水壜は、ひとりきりで花の夢をみている。

 

 

「びんを蒐集し続けていくうちに、私はびんというものが人造物であるとはいえ、じつはより大きな自然の 摂理のもとに存在している造形物だと考えるようになった」(びん博士『原色日本壜図鑑』第 0 巻、2010年、5)

 

そこに並ぶものはもはや、単なる無機物ではなく。かがんだり、上から眺めたり、触れないようにして壜を包む空気をそっと撫ぜたりしながら、幼い日に砂場で拾い上げた空色の硝子片を、空に翳したときのことを思い出す。一層青を濃くした水泡の隙間からわたしは、水のなかでおなじように上を見上げくちから息を吐き出した瞬間へと引き戻される。

 

部屋の中央には、無数の箱をもつ戸棚が置かれている。世界の終わりと名付けられ覗き込む穴を持ったたまごに落書き、シダ植物、砂とそこに埋められた貝殻、次々と戸棚を開ける、もったいなくなってそっと開ける、待ちきれなくて勢いよく開ける、を繰り返しながら。そのたびに誰かの、宝物を垣間見てしまったようで。嬉しいようで、申し訳ないような感情に襲われる。まるで永い眠りを、邪魔してしまったような心地がしてわたしはそっと、両の手で棚を閉じる。視線を上げると今しがた、わたしが覗いた世界をみているひとがいる。同じように息をはき、口元をほころばせて、一心に作品を眺める彼女。ふいにわたしと、彼女の視線とが交差し、お互いに目元を綻ばせたその時、二人と、戸棚はささやかな秘密を享有したことを知る。わたしたちを見つめていた、部屋の守り手を担う学生もまた、いたずらそうに目を、瞬かせて微笑みを浮かべる。

 

そのうちのある戸棚には、色とりどりの折り紙でつくられた無数の小箱が納められていた。小石にビー玉、硝子片にビーズ、ちいさなメッセージが書かれた紙。道端に落ちていたならけして、目を止めなかっただろう、こまごまとしたものたちが、綺麗に磨かれ、たったひとつ箱のなかでわたしたちを待ち受ける主役となって、つつましげに箱のなかにいる。それらをひとつひとつ確かめているといつのまにか、次の箱の中身を期待している自分が居ることに気づく。だからこそ、期待を含んで開けた次の小箱が空だったときには思わずためいきをつき、少なからず失望した。

 

しかしつぎの、小箱を開けて中に書かれたメッセージを読み上げたとき思わずわたしは、目尻が熱くなるのを感じた。

 

「すなわち物は開いた小箱よりも閉じた小箱のなかの方に、いつもたくさんはいっていることであろうー想像することはつねに体験することよりも偉大であろう」(GB168)と。

 

確かにそうだったのだ。小箱を眺め、形状から、形から、重さから、あらゆる想像力を働かせてわたしは中を想像した。そして、指をかけ実際に小箱を開けるまで、そこまでに最大の幸福は隠されていたのだ、なぜなら開いた小箱のなかには、わたしが想像したいかなるものも十分には納められていなかったのだから。

ふと、舌きり雀の、翁と婆を思い出す。もしかしたら彼らは平等に、幸福を与えられていたのかもしれない。小さな葛篭と、大きな葛篭を選別する際に、想像する、という行為によって。

 

 

机に並べられた葉脈の隙間から、虫眼鏡を使って周辺の地図を眺める。

 

ある扉は閉じられ、その隙間からは植物が伸びだしている。わたしはしゃがみこんで扉の先の闇をみつめる。ぼんやりとその先へ続く螺旋階段がみえる。

 

かつての東大生が、「夜、何の気なしにみると大きな月が出たような錯覚をおこします。まして月のある夜には、二つ月が出たような気さえすることがあります」と語った時計台から、下界を俯瞰する。

 

延々と納められた水の音、それとも森の中の音、ときどき聴こえる詩句に耳を澄ませる。

 

結晶製造機と名付けられた機械から、まるで万華鏡のように結晶が育つ様を観察する。

 

わたしが、夢にえがいていた通りの机と再会する。陽をあびて柔らかく輪郭を描く机の戸棚を開くと色とりどりの小石にビー玉が所狭しと並べられている。わたしは、開けたり、閉めたりを繰り返しそれが幻でないことを確かめる。

 

この展覧会は、ある学部の学生が、授業の終わりに、協力してつくりあげたものだった。

 

バシュラールの精神を表現する作品の多くは、これまで美術の授業でしか制作を経験したことがない、一般の学生の手でつくられ、計画に賛同した造形作家たちが提供した作品に潜む、ある種完成した美しさに比類するものばかりではなかった。けれども、わたしが、記憶する限り最高の展覧会であったように感じたのは彼らが、展覧会を作り上げる上で学ぶ軸としたハラルト・ゼーマンの次のことばから、宿る精神からうかがい知ることができる。

 

『そして、この美術館とほかの美術館の違いはどこにあるかといえば、いわゆる傑作というものが一つもないということです。ほかの傑作だらけの美術館とは、大きく性質が異なっています。しかし、本当の意味での傑作が、実はこの美術館にはあります。それは目に見えないものであり、「すべてのものは、ほかのすべてのものと何らかの関係を持っている」という信念なのです。』(ハラルド・ゼーマン「展覧会をつくるということ」金沢21世紀美術館プレイベントでの講演、2000年4月28日)

 

芸術家の、情熱を表現した他の多くの作品と違って、訴えかける、というよりはどこか未完成の、危うく崩れおちてしまいそうな作品を媒介とし、わたしは目を瞑り自らの深部に立ち返り、余白に耳を澄ませ、時には過去を想起した。ばらばらに、配置されたひとつひとつの作品を点とし、夜空の、星と星とを繋いで星座をつくるように、わたしたちは自由に概念を並び替え、ひとりひとりのトポフィリ、場所への愛、幸福へのイメージを獲得した。その多くを、観客の想像力に委ねた試みだったからこそ、この展覧会は、一年が経過した今でも、心に残り続ける、香りのつよいものになったのではないだろうか。

 

【展覧会概要】

『トポフィリー夢想の空間ー』展 
【会期】2011年7月20日~30日11:00~17:30

*26日(火)は休み

【会場】東京大学駒場キャンパス1号館時計台
【観覧料金】無料
【主催】東京大学大学院 総合文化研究科 超域文化科学専攻 表象文化論コース 表象文化論実験実習(田中純教授)ゼミ生一同