覚書

お別れに御礼、あるいは謝罪の言葉を、満足に告げる暇もなくあたらしい、完全に新しい春が堰を切ったように押し寄せ、いつの間にか、夏のすぐ側までわたしを流し去ってしまっていたことに気づかされたのは、久方ぶりに海を見に行った日のことだ。

新しい世界、新しい友人や師、新しい知に触れることはいつだってよろこびを伴うが唇も舌もうまく回らないような言葉に埋もれているうちに呼吸の仕方もなんだかよくわからなくなってしまい、儘ならさがくすぐったくなってわらいたいような、泣きたいような、しかしながら幸福に充たされた日々を送っている。

微睡みを帯びたひとびとの肩と肩の間から真っ直ぐに射しこむ朝の光や職場のブラインドから漏れる日差しの柔らかさに思わず目を細めてしまうこと、両親や友人と共にあたたかな食事をとる時間のこと、しんと黙っていることが苦手でどこまでも駆けていきたくなってしまう感情のこと、波飛沫の打ち寄せる遠い岬にいつだって焦がれていることでさえ、こうしている間にもどんどんと忘れてしまいそうになるが、覚えていられるといい。

大切なひとや物事のひとつひとつに、その気持ちを伝えることのできる年になりますように。

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街路樹

 

いつの間にか十一月も半ばを過ぎていた。

しとしとと雨が降る。寒さと濡れた落ち葉の匂いだけが梅雨とは違うことを肌に報せてくれる。

 

朝晩は凍えるような寒さなのでコートだかマフラーをぐるぐる巻きにしてまるで真冬みたいに装って通学している。満員電車で通勤通学の人々に囲まれてうとうととまどろむのって心地いい。

とにかく寒い。寒くなると、ぽかりと空いた穴を埋めるようにことばが書きたくなることってあるかもしれない。

 

このごろは学生らしく論文執筆に追われている。

テーマに関連した歴史を記述してゆくとき、10年前の出来事でも、100年前の出来事であろうとはっきりとした諸問題の原因などわからない。ひとつの民族について、ひとつの定義について説明を果たすことすら困難で1990年代の出来事を述べようとしているのにもかかわらず、1800年代初頭から物語を書きはじめている「わたし」がここにいる。それすら不十分で落ち着かないような気持ちにさせられる。

 

原因も対処法も何もかもわからないけれど現代の「いま・ここ」で起きた出来事に執着せず遡ること、ひとつでもこと細かな出来事を知り、間接的にでも血肉とすることー経験していないものごとの「翻訳不可能性」を常に脳髄に意識させながらー出来事を可能な限り多くの立場からの情報をもとに俯瞰し、想像すること、そして自分なりに考え続けること。

 

祈りに変え、わたしにはそれくらいしかできないだろう。

きんいろの雨

 

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わたし自身と、わたしを取り巻く人々のことについて語るのは、どちらかといえば得意で。

社会のことについて語るのは、どちらかといえば苦手だ。

 

 

雨が、降りそれを恵みと喜ぶ人々が居れば、かなしむひとがいるように。

実際にはもっと複雑に様々な人々の思惑が絡まりあい、

それぞれが、自らの立場からよかれと思って事を進め、何が正義とも言いきれず、かといって悪役にもなりきれないまま日々を暮らしている。

そのような人間の在りかたがなんだかんだわたしはすきであるしすべての、人々を掬いあげることばを発することなど不可能であるので、話題にすることを避けてきただけなのかもしれない。

 

 

 

オリンピックが、東京に決まった。

 

 

 

運動は苦手だが、観ることはすきだ。

わたしとは、別の力を持って生まれてきた人々。

ひとつのものを目指し自らを研ぎすまし続けるその姿には憧れるし、尊敬している。

 

 

普段であればすぐ通学路へとはじけるように駆けだしてゆき思い思いに、友人宅や自分の家を目指しているところであるのに。

 

朝から、どことなく落ち着かずお互いの顔に秘められた期待を探りながら、迫りくるサッカーの試合について予想を言いあって。そのまま、教育実習の先生や友人達と学校に残り備えつけのちいさなテレビを囲み、日本人選手たちがどこかの国の人々と汗を流し戦っている様をみつめ、日がすっかり暮れるまで応援した、そのような一日が、一週間があった記憶がある。

あれはたしか、小学生のときだった。

 

試合の結果や、そのとき手を取りあった友人の顔や、実習生の名、日々が朧に流れさってしまった今もあの、非日常の手触りと熱狂ともいえる感情のことだけは憶えている。

 

 

高校生のときはカナダで。

カヌーの選手と会い、首にかかる金メダルを触らせてもらったときには興奮でゆびが震えた。

目をあげて、選手と視線を交わすのも躊躇われるくらい彼が、ひかりを纏っているようなきがした。

 

 

たしかに、スポーツには心を躍らせるある種の力がある。

だから、一日本人として、生きているうちにオリンピックが日本へ、自分の住む町へやってくることはうれしい。

けれど朝、首相のスピーチや結果をみたときから、ざわざわするものが心にはあった。

賛成と反対の声が行き来するTwitterをぼんやりと眺めているうち、

ざわざわとする感情に、寄り添うような呟きにわたしは突き当たった。

 

写真

 

彼/彼女が語るのは荒唐無稽な夢だと、ひとはわらうかもしれない。

日本には、やはり様々な人々が居て、いつも復興だけを考えているわけにはゆかないのかもしれない。

もしも数年経って、日本が手遅れになってしまうなら、アジアにでもヨーロッパにでも、それこそ地球の反対側にでも、とおく移住してしまおうかと考えるような、恩知らずなわたしがいえることなどそもそも、なにもないのかもしれない。

 

ただ、復興に対する希望をもオリンピックのテーマとして掲げるなら。

福島だけ切り離して、東京は安全ですからなどと背を向けずに。

これくらい無謀な夢を掲げ、事態の収束に向け、行動を取っていってもよかったのではないかとおもうのだ。

12年後でも、40年後でも、100年後でもこれが実現するのなら、ざわざわとどこかが鳴ることもなく、手放しでオリンピックを喜べたような気がするのだ。

 

その方向には向かわなかった日本を、すこしだけ、かなしいとおもう夜。

群青

四月末、わたしは。

夏には日本を去って、見知らぬ土地で暮らしてゆく高校生たちの瞳の中に、君たちがこれからでかけてゆく「交換」留学という名のプログラムの、「交換」という言葉にはどんな意味があるのだろう、と問いかけていた。
動揺し、でも頭を熱くさせすこし高揚した調子でことばを紡ぐ彼らからは、しずかに、しずかに波紋が広がるのがみえる。
冒頭の問いの「交換」に、わたしなりの答えを与えるとしたら。
今まで自分のなかに根付いてきた、意識との交換だと答えるだろう。

自分のなかで膨れあがる先入観や、経験を伴わない知識を、手のひらでそっと粉々に砕き、あたらしく誰かからもらった欠片をはめ込んであげるように。

関わった相手のなかにも、自分の欠片を残して、そうして、すこしづつ生まれ変わりながら日々、わたしって生きているんじゃないか、とおもうのだ、今のところは。
そう、脱皮はできないけれど身体の細胞は、生まれ変わっているように。

それは、留学に限った話ではなく、旅をして見知らぬ土地の風景や匂いのなかで得るものでもあるだろうし、日本の、東京という街で根をはって、日々出会ってゆく人との関わりのなかでも起こっていることだとおもう。

日本人でも他の国のひとでもやっぱりそれは同じことで。
慣れないことばには灯がともらず、こころも、からだも疲弊してしまっていた時期があって。くるくるとよく笑い、お腹はすいてないの、おばあちゃんが今夜も魚を煮込んであなたのことを待っているよ、と温かな食卓に迎えいれてくれた友人の、母国としての中国を愛してしまったこと、いまでもときどき夢にあの日の食卓がでてくること、だから彼の国が声高に非難される声を聞くとなぜだか自分のことのようにくるしくなる。つい、むきになり反論してしまったあとの沈黙に胸が、掴まれるようにくるしくなって、しゃがみこみたくなってしまうこともある。

異文化理解であるとか、他者理解であるとか難しい言葉に彩られた交じわりの前に。
人一倍要領が悪いし、地に足がついていないようだし、生きているのか死んでいるのかもわからないしと安否を心配され、いつも、壁にぶちあたってるようだけどなんだか、あの子をみていたら力をもらえるよね、なんて。ひとりの「日本人」である前に、学生である前に、ひとりの人間として、欠片として、記憶に残るような存在でありたい。
誰かの、力になってきたというよりも助けられてきた、人生だったようにおもう。分岐点を思い返すたびに後悔し、他人の所為にしてみたりそのたびに、幾らでも話を聞いてくれる恩師や、友人がいたり、目指していたくなるような人が前を走っているのだ。

夕方、後輩に言葉を投げかける一方、どこかでは自分が救われていることに気づいていた。
自分が進んでゆくことに、周りを置き去りにしてでも主張を通したり、学び手に入れることに必死だったけれど、やっとすこし、後ろにさがり俯瞰できるようになってきたので。
忘れた頃に流れていた涙が、やっとぽろぽろと零せるようになってきたので。

これからは、周りのひとを引き上げられるひとになれたら、がんばって、と前や後ろから声をかけるのではなく、肩に手を載せて一緒に歩いていけるようになれたらいい、笑いたいときは声をあげてわらって、美しいものは指で指し示して、わたしの知っていることは教えてあげられたらいいし、これからも、あなたがたから学び続けてゆきたい。知らないことはおそろしくて、けれど手をのばせることが、一秒、生を割くたびに、変化してゆけるようで嬉しい。

 

ああ、なにになりたいかって、善きものに、なりたい。

夜に寄せて

ただ呼吸を、整えるために走らせていたペンが、いつの間にか夜を描くために走り出していることに気づく。

階段を、降りた先の夕焼けに立ち止まってみたり、教室の窓の外で雨上がりに映えるみどりの葉々を横目に浅い眠りに落ちてみたり、バスに揺られながら背後で交わされるひそやかな母子の遣りとりに耳をかたむけたり日常に追われながらそれでも、何の意味もなく、なくしてしまったとて影響の無い、ことがらを振り払えない自分が居ることにもまた気づかされる。

愛が、たしかにそこにあることもわたしにはそれをどうしようもないことも、遠くとおくへと駆けてゆきたい衝動が何時だって胸のなかで渦巻いていることも、さくさくと鳴る音がすきでレタスをくちにするひとがいるとつい見てしまうことにも幼い頃、思い描いていたよりもずっとわたしにはちからがなく、どうして、と問いを放ちながら語尾には答えを含んでいることにも、昨日よりも、今日のほうがより賢いかおをして鏡に映ることができることにも夜が、こうして更けてゆくのをちいさくなって待っているしかないことにも、気づいている。

気づく、というのは崇高で身勝手な行為だとおもう。

 

 

たとえば、夕刻に。

昨日は、一時間に一本しかやって来ない電車、というものにはじめて乗ってきた。
というのも、群馬県大泉町を訪れたからだ。

***

「葡萄牙語表記をみつけると嬉しくなってしまう症候群」

というものはたしかに、存在しているとおもう。

アクセントを引き連れた特徴的な文字がおどるように目の前を横切りあたまの片隅でどうにも気になってしまうところからはじまり、響きを耳にしただけでくすぐったくなってわらいたくなってしまうようなそれ。

たとえば、スーパーでありがとうございましたといわれたとき、会釈をして、ときにはちいさく微笑んでみたりするくらいがわたしの精一杯である。けれどBoa tardeをいらっしゃいませの代わりに贈られた日には。

ひとしきり店内を眺め扉をあけ外にでるときについ、店の人に続けobrigadaをくちに出してみたくなるような魔法が空気中には漂っている。

***

夜に向かう町の風は冷たく、それが吹き抜けたならきっと底冷えがするのだろう家々が何件もあり、どの家からも太陽の恩恵を受けた陽気な音楽が聞こえる。

人があまり通らない夕暮れの大通り。

土曜までは目一杯仕事があるので日曜になると人で一杯になるのだという話をききながら、信号を通りすぎるときひときわ強く踏まれるアクセルの音と、ひときわつよくなる音楽が重なる瞬間に耳をすます、日々を鮮やかにするためになにもないところから、側にあるものを叩きリズムをつくるところから音楽は生まれるのだなとおもう、そうしているうちに橙が空を染めネオンや街灯がともりはじめる。これから工場から帰路につく多くの人たちが町へと繰り出しBarやカフェへゆき、一日の疲れを癒すのだという、去年の暮れにみた演劇に、一杯のコーヒーが日々を変え、だからこの町にはカフェが必要なのだという一シーンがあった。そのときに感じた、引き摺られるようななにかは、きょうの来訪に繋がっていたのだなとおもった。

カメラを、鮮やかなものに向けることは易しかったが、こころうごかされたものに向けることはついぞできなかった。

また、訪れるときには甘えを捨てられているといい。

うそつきは甘美に香る

 

わらって、しまうほどにゆるやかなペースで、

しかし、

着実に日々は流れ続けている。

春は、あしぶみをして番が巡るのを待っている
あくびを噛み締めるわたしの、直ぐうしろで

きのうと、

あすとの。

境界線上に横たわるきょうというひが未だ、わからない、ままなので

大概、眠りそびれてしまう。

もうじきすれば。

濁流がやってくる。

息継ぎをしながら、秋のはじめを目指し泳いでいかなくてはならないので
その前に幾つか記憶の、みじかい走り書きを。

相変わらず

ずっと、であるとか
永遠に、という

約束ごとをくちのなかで転がすのがすき。

誰よりも変化を望む振りをして夢をみる
たとえば、と想像したよるに限り

気を、抜くとなみだが滲むから気をつけたほうがいい

蕾、

花びら、

あたらしいくさむらに触れる、

春の到来によるひとの生え変わり、
生まれ変わりをたしかめる、

窓、を開けたままあさを迎える、

おやすみ、におはようを祈りのように口ずさみつづける、

髪をはじめてのように抱きしめる、

道は、たしかめながら歩き、

存分に、寄りみちを

うしろを、振り返らなくていい

後ろ向きに、あるいているのか

前向きに、

駆け出しているのか時折、混乱したなら。

春のはじまりは、どちらを、向いたところでしあわせだったことをおもいだせるといい。