たとえば、夕刻に。

昨日は、一時間に一本しかやって来ない電車、というものにはじめて乗ってきた。
というのも、群馬県大泉町を訪れたからだ。

***

「葡萄牙語表記をみつけると嬉しくなってしまう症候群」

というものはたしかに、存在しているとおもう。

アクセントを引き連れた特徴的な文字がおどるように目の前を横切りあたまの片隅でどうにも気になってしまうところからはじまり、響きを耳にしただけでくすぐったくなってわらいたくなってしまうようなそれ。

たとえば、スーパーでありがとうございましたといわれたとき、会釈をして、ときにはちいさく微笑んでみたりするくらいがわたしの精一杯である。けれどBoa tardeをいらっしゃいませの代わりに贈られた日には。

ひとしきり店内を眺め扉をあけ外にでるときについ、店の人に続けobrigadaをくちに出してみたくなるような魔法が空気中には漂っている。

***

夜に向かう町の風は冷たく、それが吹き抜けたならきっと底冷えがするのだろう家々が何件もあり、どの家からも太陽の恩恵を受けた陽気な音楽が聞こえる。

人があまり通らない夕暮れの大通り。

土曜までは目一杯仕事があるので日曜になると人で一杯になるのだという話をききながら、信号を通りすぎるときひときわ強く踏まれるアクセルの音と、ひときわつよくなる音楽が重なる瞬間に耳をすます、日々を鮮やかにするためになにもないところから、側にあるものを叩きリズムをつくるところから音楽は生まれるのだなとおもう、そうしているうちに橙が空を染めネオンや街灯がともりはじめる。これから工場から帰路につく多くの人たちが町へと繰り出しBarやカフェへゆき、一日の疲れを癒すのだという、去年の暮れにみた演劇に、一杯のコーヒーが日々を変え、だからこの町にはカフェが必要なのだという一シーンがあった。そのときに感じた、引き摺られるようななにかは、きょうの来訪に繋がっていたのだなとおもった。

カメラを、鮮やかなものに向けることは易しかったが、こころうごかされたものに向けることはついぞできなかった。

また、訪れるときには甘えを捨てられているといい。

Advertisements

想像すること、そして甘美なはばたき|『トポフィリー夢想の空間ー』展

一枚の絵を、目にしたとき。

不思議な世界にまつわる話や、見知らぬ人間たちと書物の中で出会ったとき。

 

 

いまだ目にしたことのない世界を、わたしたちは思い描く。

鮮やかに色づき、音を奏で、ときには香りを放つ甘美な世界を思い浮かべる力を人びとは、想像力と名付けた。

 

想像力は、場所とも密接に結びつく。

古の、廃墟のなかで空を仰ぐとき。わたしたちはかつてその場所で同じように空を見上げた先人達を思う。特別な、場所でなくとも構わない。押し入れ、家の側で大きく枝を広げた木、学校の裏庭で陽を浴びた階段。すべての場所に、秘密の扉がとりつけられ、ひとたびそれを開けると、わたしはわたしだけの王国に足を踏み入れることができた。

 

いつも、不思議に思うのだ。

はじめて、思い浮かべたものであってもまるで最初からそこにあったかのように匂いたつものたちー想像力によってつくられたーはいったい、どこからやってくるのかと。

 

東京帝国大学建築学科で教鞭をとっていた内田祥三と清水幸重が建築に携わり、2000(平成12)年に国から登録有形文化財の登録を受けた東京大学駒場キャンパスの、1号館時計台がこの展覧会の舞台だ。

 

そのため作品の鑑賞は、屋根裏部屋を目指し、階段を登ることからはじまる。

 

螺旋階段。

 

幼い頃、父に連れられはじめて行った展覧会は「ガウディ かたちの探求」だった。帰宅してから、すっかり螺旋のうつくしさに取り憑かれたようになったわたしはその冬、黄金比を用いて、最もうつくしい形で連なり続いてゆく円を描き出し、それを慎重に木に彫り込み、版画として永遠の命を与えた。

 

淡く埃を被った黒色のカタログを家の本棚から取り出し、膝上に広げる。アンモニアナイトの化石のようにセピア色をした、螺旋階段が表紙に横たわる。

 

あのときもそうであったように螺旋は、色褪せることがない。

 

 

「この螺旋によって、夢想家は大地の奥底からぬけだし、高所の冒険に足をふみいれる。事実夥しい、狭苦しいまがりくねった小路をとおりぬけて、読者はやっと一つの塔へでる。」(GB74

 

階段のところどころにちりばめられたバシュラールのことばを、読み解きながらわたしは上を目指す。ひかりが、頭上から柔らかに射し込む。

 

立ち止まり、後ろを振り返れば、今まで登ってきた螺旋を臨むことができる。昇る、という行為において、螺旋ほど、うつくしい階段はないように思う。わたしは俯いて、足の軌跡が円を描くのをみる、すると自分が螺旋の循環の一部であるかのように感じる。かつて、ガウディは『樹木は常に「外側と内側」の境界線をもたない』と云った。緩やかに曲がりくねる階段とわたしがまるで、同じ生き物であるかのように感じてわらう。それは夏休みの、誰も居ない昼下がり。静寂のなかで足音だけが響く。わたしを追い越して駆け上がっていった足音たちは、塔の頂上まで辿り着いてもう、戻ってこない。音たちの軌跡は螺旋だったろうか。

 

なぜ、上を目指すのだろう。そして、上にはなにがあるのだろう。もやもやと心の中に膨れ上がり零れ落ちそうだったそのような疑問は、螺旋階段を登ってゆくうちに昇華されてゆく。その恍惚は、山を登ることに似ている。

 

やがてわたしは屋根裏部屋の扉を開ける。

 

ごろごろと球が、転がる音が聞こえる。

足を踏み入れたわたしを待っていたのは内林武史の《軌道終生》であった。永遠に、球がレールの上を廻り続けている。いつかは、終わりがくるのだと判っていながらも、目を離すことができない。どこかで道を、はずれてしまうのではないか、裏に回った球は二度と、帰ってこないのではないか、と不安は消えない。砂時計にしても、油がつぎつぎと上へ繰り出される時計にしてもそうだ。私は、永遠、ということばに、感覚にとても弱い。

 

「このように存在においては、すべてが循環であり、すべてが迂回であり、回帰であり、持続運動である」(GB359)

 

視線を離すと、窓際に、かつての記憶に満ちた壜が並べられているのがみえる。気泡の、ひとつひとつに未だ見ぬ物語をおもう。射し込んだひかりが、硝子を通り抜け戸惑ったように拡散してゆく。

 

香水壜は、ひとりきりで花の夢をみている。

 

 

「びんを蒐集し続けていくうちに、私はびんというものが人造物であるとはいえ、じつはより大きな自然の 摂理のもとに存在している造形物だと考えるようになった」(びん博士『原色日本壜図鑑』第 0 巻、2010年、5)

 

そこに並ぶものはもはや、単なる無機物ではなく。かがんだり、上から眺めたり、触れないようにして壜を包む空気をそっと撫ぜたりしながら、幼い日に砂場で拾い上げた空色の硝子片を、空に翳したときのことを思い出す。一層青を濃くした水泡の隙間からわたしは、水のなかでおなじように上を見上げくちから息を吐き出した瞬間へと引き戻される。

 

部屋の中央には、無数の箱をもつ戸棚が置かれている。世界の終わりと名付けられ覗き込む穴を持ったたまごに落書き、シダ植物、砂とそこに埋められた貝殻、次々と戸棚を開ける、もったいなくなってそっと開ける、待ちきれなくて勢いよく開ける、を繰り返しながら。そのたびに誰かの、宝物を垣間見てしまったようで。嬉しいようで、申し訳ないような感情に襲われる。まるで永い眠りを、邪魔してしまったような心地がしてわたしはそっと、両の手で棚を閉じる。視線を上げると今しがた、わたしが覗いた世界をみているひとがいる。同じように息をはき、口元をほころばせて、一心に作品を眺める彼女。ふいにわたしと、彼女の視線とが交差し、お互いに目元を綻ばせたその時、二人と、戸棚はささやかな秘密を享有したことを知る。わたしたちを見つめていた、部屋の守り手を担う学生もまた、いたずらそうに目を、瞬かせて微笑みを浮かべる。

 

そのうちのある戸棚には、色とりどりの折り紙でつくられた無数の小箱が納められていた。小石にビー玉、硝子片にビーズ、ちいさなメッセージが書かれた紙。道端に落ちていたならけして、目を止めなかっただろう、こまごまとしたものたちが、綺麗に磨かれ、たったひとつ箱のなかでわたしたちを待ち受ける主役となって、つつましげに箱のなかにいる。それらをひとつひとつ確かめているといつのまにか、次の箱の中身を期待している自分が居ることに気づく。だからこそ、期待を含んで開けた次の小箱が空だったときには思わずためいきをつき、少なからず失望した。

 

しかしつぎの、小箱を開けて中に書かれたメッセージを読み上げたとき思わずわたしは、目尻が熱くなるのを感じた。

 

「すなわち物は開いた小箱よりも閉じた小箱のなかの方に、いつもたくさんはいっていることであろうー想像することはつねに体験することよりも偉大であろう」(GB168)と。

 

確かにそうだったのだ。小箱を眺め、形状から、形から、重さから、あらゆる想像力を働かせてわたしは中を想像した。そして、指をかけ実際に小箱を開けるまで、そこまでに最大の幸福は隠されていたのだ、なぜなら開いた小箱のなかには、わたしが想像したいかなるものも十分には納められていなかったのだから。

ふと、舌きり雀の、翁と婆を思い出す。もしかしたら彼らは平等に、幸福を与えられていたのかもしれない。小さな葛篭と、大きな葛篭を選別する際に、想像する、という行為によって。

 

 

机に並べられた葉脈の隙間から、虫眼鏡を使って周辺の地図を眺める。

 

ある扉は閉じられ、その隙間からは植物が伸びだしている。わたしはしゃがみこんで扉の先の闇をみつめる。ぼんやりとその先へ続く螺旋階段がみえる。

 

かつての東大生が、「夜、何の気なしにみると大きな月が出たような錯覚をおこします。まして月のある夜には、二つ月が出たような気さえすることがあります」と語った時計台から、下界を俯瞰する。

 

延々と納められた水の音、それとも森の中の音、ときどき聴こえる詩句に耳を澄ませる。

 

結晶製造機と名付けられた機械から、まるで万華鏡のように結晶が育つ様を観察する。

 

わたしが、夢にえがいていた通りの机と再会する。陽をあびて柔らかく輪郭を描く机の戸棚を開くと色とりどりの小石にビー玉が所狭しと並べられている。わたしは、開けたり、閉めたりを繰り返しそれが幻でないことを確かめる。

 

この展覧会は、ある学部の学生が、授業の終わりに、協力してつくりあげたものだった。

 

バシュラールの精神を表現する作品の多くは、これまで美術の授業でしか制作を経験したことがない、一般の学生の手でつくられ、計画に賛同した造形作家たちが提供した作品に潜む、ある種完成した美しさに比類するものばかりではなかった。けれども、わたしが、記憶する限り最高の展覧会であったように感じたのは彼らが、展覧会を作り上げる上で学ぶ軸としたハラルト・ゼーマンの次のことばから、宿る精神からうかがい知ることができる。

 

『そして、この美術館とほかの美術館の違いはどこにあるかといえば、いわゆる傑作というものが一つもないということです。ほかの傑作だらけの美術館とは、大きく性質が異なっています。しかし、本当の意味での傑作が、実はこの美術館にはあります。それは目に見えないものであり、「すべてのものは、ほかのすべてのものと何らかの関係を持っている」という信念なのです。』(ハラルド・ゼーマン「展覧会をつくるということ」金沢21世紀美術館プレイベントでの講演、2000年4月28日)

 

芸術家の、情熱を表現した他の多くの作品と違って、訴えかける、というよりはどこか未完成の、危うく崩れおちてしまいそうな作品を媒介とし、わたしは目を瞑り自らの深部に立ち返り、余白に耳を澄ませ、時には過去を想起した。ばらばらに、配置されたひとつひとつの作品を点とし、夜空の、星と星とを繋いで星座をつくるように、わたしたちは自由に概念を並び替え、ひとりひとりのトポフィリ、場所への愛、幸福へのイメージを獲得した。その多くを、観客の想像力に委ねた試みだったからこそ、この展覧会は、一年が経過した今でも、心に残り続ける、香りのつよいものになったのではないだろうか。

 

【展覧会概要】

『トポフィリー夢想の空間ー』展 
【会期】2011年7月20日~30日11:00~17:30

*26日(火)は休み

【会場】東京大学駒場キャンパス1号館時計台
【観覧料金】無料
【主催】東京大学大学院 総合文化研究科 超域文化科学専攻 表象文化論コース 表象文化論実験実習(田中純教授)ゼミ生一同

 

 

 

うそつきは甘美に香る

 

わらって、しまうほどにゆるやかなペースで、

しかし、

着実に日々は流れ続けている。

春は、あしぶみをして番が巡るのを待っている
あくびを噛み締めるわたしの、直ぐうしろで

きのうと、

あすとの。

境界線上に横たわるきょうというひが未だ、わからない、ままなので

大概、眠りそびれてしまう。

もうじきすれば。

濁流がやってくる。

息継ぎをしながら、秋のはじめを目指し泳いでいかなくてはならないので
その前に幾つか記憶の、みじかい走り書きを。

相変わらず

ずっと、であるとか
永遠に、という

約束ごとをくちのなかで転がすのがすき。

誰よりも変化を望む振りをして夢をみる
たとえば、と想像したよるに限り

気を、抜くとなみだが滲むから気をつけたほうがいい

蕾、

花びら、

あたらしいくさむらに触れる、

春の到来によるひとの生え変わり、
生まれ変わりをたしかめる、

窓、を開けたままあさを迎える、

おやすみ、におはようを祈りのように口ずさみつづける、

髪をはじめてのように抱きしめる、

道は、たしかめながら歩き、

存分に、寄りみちを

うしろを、振り返らなくていい

後ろ向きに、あるいているのか

前向きに、

駆け出しているのか時折、混乱したなら。

春のはじまりは、どちらを、向いたところでしあわせだったことをおもいだせるといい。

ふゆのまどを聖なるよるに向かってひらいたなら

 

 

 

朝も、夕も晩も、関係なしに進んだ時間。

よっつ、夢を越えたわたしの、記憶。

残っているのは、ちいさな断片だけ。

青い、小鳥だけが知るうたでもうたいながら。

ささやかな、思い出話を。

電車に、揺られながら。

太陽を背にし、腰を下ろす。

目を、細めわらいながら手を、翳しひかりを受けとめる。

日が傾くより早く、傾くあたまは。おひさまの灯った、肩のうえでただいまとうたう。

黒髪には熱がよく籠るだろう、だから時折ゆびで風を通し撫で心地を確かめながらしろく、ふわふわと毛を飛ばす帽子を深くかぶって。

耳を、外へ出すと寒い、から。

座っているだけでもはじまり、終わってゆく旅。

はじまりからなぜ、足早にもさいごのあさを追いかけてしまうのだろう。

わたしのこころ、は。

おひめさまなんて可愛らしい、ものではなくちいさな、鼠のままでかぼちゃの電車に乗りこむ。
刈り取られた田んぼに雪を、頂に蓄えた山。

バス、バス、バス。

ひそやかに、呼吸をするには。
荷物に埋もれるくらいがちょうどいい。

息は窓を、しろく染めた。

外の景色は、覚えていない。

ひとが少ない道、
お決まりのメリークリスマスよりほっほっほっが似あうサンタクロースに、きらきらとした瞳で動くひとびと、

チーズは熱く、トマトは甘い。

ドワーフのようなおじさんたち。
わたしの、おじぎ草。行く先を間違える階段。
なかなか開かない鍵。エトセトラ、エトセトラ。

神父さんのおはなしの横で、蝋燭の焔がゆらめく。

かみさまの息吹。

なぜ、ひとは。

ことばを重ねることでしか、そこに在ることを、証明できないのだろう、と。

口のなかでそっと呟く。

瞬きを忘れたので淡く、雫が滲む。

ポケットに手を、入れるのは先のほうがいい

そのことに気がついたのは、まもなくのこと

オレンジいろのひかりが弱まり、やがて夜がやってくる。

コーヒーの香り。

天井のちかくで、かき混ぜられた温かな風が濡れた髪をはためかせわたしは。

くうきを、いっぱいに含み。

スカートの裾を、人差し指と親指を使いかるく持ち上げながらくるりと廻る。

そのまま、
倒れるまで、
眠らないで、
くるくると、回っていたくってわらう。

夜が更けるまで、いつまでも、いつまでも。

暗闇のなかで幾度も、幾度も朝が巡る

さいごに、ひかりが瞼を撫でる

からだを起こし

布団から足をだし
シーツを引き寄せる

それから、静電気を纏って自由きままにしている髪の毛をまとめ

目がみえないので眼鏡をかける
すると急に、せかいがはっきりするので目を背け

何枚も何枚もの布でからだをつつみなおし靴をはく

いちどきに、そのすべてを。
成し遂げ、満足しながらわたしは、

駆けるように階段を降りる。

サラダ、

ベーコンに赤いケチャップの映えるオムレツ、

鮮やかなみどりの野沢菜。

ウィンナーにフレンチトースト、

チーズの載せられたフランスパンに、ホットケーキ。

ヨーグルトにはブルーベリーと蜂蜜を。

ご飯に香るのは、鳥。
喉を、滑り落ちていくコーヒー

思ったよりも空っぽな胃袋。
噛みしめ、噛みしめるようにして咀嚼した食べものをいれる。

蜉蝣は、ほっそりとした喉元まで我が子を抱えこむ

わたしは、それよりも幾らか、丸みを帯びた身体で食物を抱え込み熱を、発する

寒いですね、

ええ寒い。

と、ことばを交わしながらそれでも、

いってらっしゃい、

いってきます。

と、ことばを交わし、扉を、押し

あしを外へ、踏みだすことのしあわせ。

歩いているとやがて、針葉樹が梢をひろげる森へ

枝をひろい枯れ葉を蹴り空を仰ぐ

川はひんやりと流れる
そうしてやんわりとことばで抱きと、められるのだ
石が待ち受ける川辺に
腕をひろげ飛びおりたい、くらいだというのに

燦燦と木漏れ日が降る
すくいあげては、枯れ色の葉と松の、枝で欠片を遺す
そこに、在ったことを忘れぬ、ように

いつの間にか、風はやんで

顔をあげると。

バスが訪れていることを知る。

運転手は、朗らかにわらう。

彼のバスは、うたうように、ながれるように、揺れながらカーブを曲がる

色ガラスの、まどの下では手の甲も、つめも、ふゆいろ。

高く、たかく道を登るにつれ

窓の外では、

冬に、忘れられたゆきがちらほらと地を染める

水蒸気が宙を舞うと

しろはしろを増し

透明は、透明をつよめ

氷柱は育ってゆく

もしかすると、

うつくしいものが、

うつくしい、

その、ままである為には。

誰かの手が、必要なことのほうが多いの、かもしれない。

足を載せ、ペダルを踏みこむと。

思っていたより。

ひと漕ぎで遠くへ、連れていかれる。

それはすくむ、足のまま。

一回りほどおおきな手にひかれ氷上を滑る、ような。

あっという間に電気は空へと近づく

下り坂では足を

ペダルから離して、空を蹴る

微かに、土に擦れるつまさき

土埃は、みえない

ぐるぐる巻きになって雪の子、或いは雪だるまのように坂を、下る。

腰をおろし手のひらで触れたなら。

心地よさそうなテラスを、ずんずんといく。木はやはらかにひかりを吸いこみ、冬をあたためている。

祈る、という行為が必要のない空間

信じる、

信じないということば、ももはや。

はじめからただ、そこに、名のつかないなにかが、在るのだと。

手を、伸ばしそれに。

触れようとすることは、罪深いことで。

しかし、足掻き続けるひとの。

その姿は尊く、造り出したものは眩い。

朝が来て。

夜が来て、春が巡り夏が舞いこみ、また、冬が還ってくるまでただ、その椅子のうえで呼吸を、していたかった。

空に、向かいひらかれた窓の、外で。

風に揺れる、梢を。

わたしは、みていた。

石の、教会。

珈琲と、紅茶。

紙の上に記されていたとき必ずといっていいほど後者を、名指していたわたしは、息を潜める

珈琲を、飲むと。

あのひとを鮮やかに思い出せることを、知って、しまったから。

くちびると歯でケーキを噛みしめるとお酒が香った

くらくらしたのは喉に流しこんだ茶色の、液体の所為。

日が傾いて猫の、棲む店へと帰る

おいしいものを食べることがすきなのか、

おいしい、ものを食べたいひとと食べることがすきなのか、

おいしいものを食べているから目の前の、ひとがすきなのか時々よく、わからなくなる

ただ、この身をさらう感覚、だけに。

忠実になって耳を澄ますと前を、行くひとが抱える、袋がかさこそと揺れる。

重みですこし傾いた肩をみながら

わたしは、目を細めるのだ。

なんて、生きものなのだろう。

夜は音もなく更ける

いつのまにか窓の外は

一面の、雪景色。

枕元に置いたプレゼントを。
ねむい目を擦りながらわたしが、差し出してしまったのはまた別のおはなし。

冷たい風と幾つかの列車を越えて夜が、また巡る。

わたしは旅に、お別れを告げる。

灯りを消すのも忘れ、懐かしい布団に潜りこんだものの、なかなかねむれなかったのは、言うまでもないだろう。

夏の欠片を抱えて冬は

空は雨を、忘れてしまった。

なにも、考えていないようなアオを、見ないようにして俯いたまま、でわたしは。

肩から、滑り落ちていくマフラーを首元まで引き寄せ。

いきを、ふっと吐き出す。

湿りけを帯びたそれ。

追いかけるよに一陣の、からからに乾いた、風。

空の向こうの、

あの、

なにもなく、ただ、ひろいところから。

冷たいふゆ、を孕んだ風が。

ようやく、ここへ。

過ぎ去った、断片のはなしをしよう。

旅立ちを決めたのは。

いちめんのむらさきの夢をみた、から。

Ⅰ.

彫刻家が。

永い、眠りにつくまえ、夢みた公園を。

祖母と、足取りをそろえ、踏みしめるようにして、歩く。

時折痛む、膝をさすりながら、先を行く彼女は、緩やかに続く山の中腹で立ち止まりわたしを見下ろして。

思ったよりも、あっという間に上までやってきたものだ、と微笑む。

誰よりも、軽やかで。

物怖じせず貪欲で、才に、恵まれたひと。

けれど。

機会が、生まれる時代が、与えられたとはいえなかったひと。

いままで、歩いてきた道を振り返りながらわたしは。

自らの登っていく道を。

佇む、彼女のうしろに、みる。

あんまりに眩しい笑顔を。

灼きつけるように、そっと、目を瞑る。

瞬きをして、あけると。

背中は。

いつの間にか遥か、とおく。

わたしが追いつくのは、まだ、いつかの話だ。

Ⅱ.

雨ふりの、昼下がりのこと。

しっとりと水を含んだポンチョを、深く、あたまにかぶり直し傘を畳む。

荷物は、すべて放りだして。

鞄、ひとつで街の中心を目指す。

結びなおした靴紐の具合をたしかめながら、くるくると回る、ように歩き。

腕をいつもより、すこし高く振ってあるきながら雨粒が。

煉瓦を叩く夢をみる。

気がつくと、

ポケットには港町への片道切符。

座っていたのはふかふかとした、青い、電車の椅子。

腕を抱えながら。

時折鞄に忍ばせた飴玉をくちに転がしながらごとごとと、振動、だけにみみを澄ませ。

端のかべ、或いは隣の、ひとにもたれかかり、ながら微睡みをつづける。夢の、続きを辿るように。

ふいに、背中がひかりに包まれる。

振りむくと、

一面の、うみ。

漆黒を含んだ、銀。

南の、海よりもずっと濃い、青をしながら。

波、寄せては返し、寄せては、返しする。

遠くなってゆく海岸を眺めながら。

いつかまた、この電車に乗るときは。

窓をからからと開け、

爪先だけを外にだし、

塩混じりの、体温より幾許かひくい温度のみずに触れ、

ゆびさきから、

そのまま、泡になって

消えてしまおう、と決める。

尾鰭が、

生えたならそのまま。

海の、

いちばん底まで、泳いでいこう。

Ⅲ.

逃げるように。

息も切れ切れになり汗を、滴らせながら、坂道を登る。額も、くびも、髪からも水はしたたり落ち、急な勾配に、鈍らなからだはついてゆけず、くるしいと悲鳴をあげる。頬は、燃えるようにあつくそのあかは、きっと瞳をも染めて。木漏れ日のなか、時折のぞく空を横目に見ながら、カメラを取り出すこともせずただ、道を急ぐ。苛酷な環境の中にも、茅が、集落の屋根には葺かれ。横を通ると、灰の、香りが鼻腔を掠める。

蜻蛉が舞う。

ひとを知らない彼ら、旋回してはこころもとなげにわたしの、指や肩に触れて去って。

茸は。

木の洞から顔を覗かせてはきれいな、かたちをしてわたしを迎える。

うっそうと茂る、森の中。

にんげんは、わたしひとり。

ほんとうなら。

触れて、あいさつをしてゆきたいくらいなのに。

歩みは止められない。

何故なら。

気を抜くと、蚊の集団に襲われる、から。

懐かしい、記憶。

私自身、というよりは。

血に流れる、日本人としての、原風景がくすぐられくさのうたをうたう

きんいろの田園地帯を越えて

うみを越え

やまを越え

幾つもの、

丘を越えて

わたしは、楽園へと辿りつく。

空は、終わりを知らない。

赤に

黄に

紫に

藍に、

まるで花火のように、移り変わりながら空は燃えて。

燻る熱を。

洗い流すように、どしゃぶりの雨が、地面を叩く。

わたしは透明な傘を広げ、雨粒と一緒に、夜が落ちてくるのを受け止める。

電灯も、

星も、

車も通らない、地に。

闇はたちこめる。

自分の手が、どこにあるのかもよくわからないまっくらやみのなかで。

このまま帰らずに、足元の、一本道をどこまでも進んでいきたい、と。

ともしび代わりの電話に。

暑さの残る夜のした、やわらかに呼吸をするひとの、

こえを灯しながら。

遠い、とおい地で。

同じように、

夜を、迎えたとして。

わたしはまた、

同じように

灯をともすのだろう、と。

ひとりきり、歩きながら。

ふと、思う。

わたしは右の足を、

そのあとには、

左の足を。

前へ、

前へと進める。

倒れ、こむように眠りにつき。

太陽、よりも早起きをしたわたしを。

迎えてくれたのは、

まっしろな、おつきさま。

ミルク色の、霧に包まれ。

足元も、曲がり角の先も、なにもかもがみえないので、

くらやみを振り払うように霧を、かきわけながらわたしは、

展望台を、目指す。

案の定、道を間違え。

そのことにも気づかないまま、ぬかるみに足をとられながら、農道をすすむ。

ふいに、夜明けがやってくる。

鳥は、

一斉に目を覚まし。茂みの、なかで羽撃きをはじめる。

朝露を纏い、きらきらと風をうけるくさに、赤を帯びる地面。

蜘蛛は艶やかに揺れながら巣をつくり、その、隙間を縫うように、羽を。

重たくした蝶は、日なたを目指しひらひらと飛んで。

来た道を引き返しながら、

新しい、せかいと。

わたしは、出会う。

冷え切ったからだを。

湯の中へ沈めあたまのさきまで、溺れるくらいにあたたまったのは。

ささやかな冒険を終えた、あとのおはなし。

貸自転車に乗って、風のように

丘を走る

上り坂のあとには、下り坂があること

じゃがいもの積み上げられた道に

空を飛ぶトラクター

木の間を飛び移る栗鼠、用水路をながれてゆく木の葉、

ドラム缶、或いは虫たちの王国

足をとるのは、底なしの泥

赤い屋根の家

きいろい菜の花のような柿の葉

夫婦の案山子が指し示す、忘れられたみちに、空を、

目指す電信柱

樅の木よりもおおきな、ポプラの木

ひまわり畑の飛蝗

ぶらんこの上の、どんぐり

ステンドグラスの家 綿帽子の行列

この、楽園を語るときに。

たとえば、と。

ことばを綴ることは、あまり役に立たない。

くるくると、綻ぶ様なおんなのひとと、

気さくなおじさん。

そしてきんいろやあかやちゃいろのかみをした、まだ、あどけなさがのこる少年たちと、

でかけたのは、夜の散歩。

ひとりきり、の響きがもつ、なんともいえないひみつの香りもすき、だけれど。

集団で、わらいながら、くるくると回りながら、うたをくちずさみながら歩くのはやっぱり、たのしい。

タイムリミットは、三十分以内。

目指す場所は片道20分。

途中で離脱した、大人たちを尻目に、少年たちは駆け足で夜を越える。

時間内に、たどり着いた彼らを見ながら。

くしゃくしゃな、かおで笑った、先生が忘れられない。

許されるのなら全員の、あたまをくしゃくしゃしたいくらいに、よるはしあわせに更けて。

お土産の、アイスクリームは。

甘い、味がした。

 

青い、沼の話や、

溶岩の残るやまのはなしは、

またいつかにして。

わたしはまた、旅の支度をはじめる。

そういえば。

ことしはじめての雪が。

このあいだ、楽園に降ったらしい。

 

 

ことばの地平線

書くことはだれでも簡単にできる。しかしそれを読むことは崇高な作業で、書く行為を簡単には許さないそういう抑制として始まる。ときに読むことは書くことを追い越してしまう。書かないときは何も出てこないというより、そんなものをまず自分自身が読みたくないときかもしれない。

そうして書くことと読むことは対立していてそこには時間的なへだたりもある。音楽や絵にそういうへだたりがあるのかどうかわからないが、そんなへだたりはないとここでは言っておく。色や音は言葉とは正反対のもので、言葉には意味があるが、色や形、音に意味がないのは、それらが意味そのものだからではないのか。

言葉はどこから音楽なのか/坂のある非風景

 

 

わたしは。

自らのうちに生まれることばをよく。

はなうた、と表現する。

物語でも詩でもないそれは、うたのようだったから。

しかしここで。
再度振りかえり立ち返って考えてみると。

意味も、音も、いろも、感情も、風景も。

ことばはそのうちのどれかひとつ、

を表す手段ではなく。

わたしにとってそれは、

軽々と境界をこえ混じりあいせきたてるように溢れるなにか、だ。

特別な時間を与えられた言葉はどこから音楽だろうか。はたして音楽と呼ぶしかないそれを音楽と呼んでいいのだろうか。

その問いに、イエスと。

でもまだ足らない。

なぜならことばは、すべてだから。

彼(または彼女)は、わたしの文章における句点を、呼吸の息つぎになぞらえていて。

たしかにそれは、

と腑に落ちると同時に、より深くへ連れて行かれたことが嬉しくて微笑む。

呼吸、のように。

それはわたしが。ことばをタイムラインに流すときにも顕著に表れる。

音読をし、息つぎで、止まるように。

或いは、

詩における、連のように。

ことばは書き手にあわせ呼吸をし。

そして、
もしかしたらわたしは読み手にも、それに合わせ呼吸をしてほしいのかもしれない。

それは、自らのことばにとどまらず。気にいった詩を流すときも同じで。

誕生日に流したポール・エリュアールの「自由」も。
一分ごと刻みつけるように流したことをふと、思い出す。

わたしはまだ。文章、という境界を越えことばつづるひとを。いしいしんじさんの他にしらない。

その境界を越えことばつづる道を。

切り拓きたい、と願う。不遜にも。

書くことは、崇高ではない。

読む、という行為さえ。
嫌悪する人々が蔓延する、この、世界で。

それでもなお、求められることを。
わたしは、欲してやまない。

だからこそこの手で。

読み手が、書きたくとも。
辿りつけない、地点へ。

読み手の呼吸も、
視界も、
感情も。

わたしのみる世界、そこへと運ぼう、と思うのだ。

ひらりとでんしゃに飛びのりわたしは

ちいさな頃、好きだった絵本の「こんとあき」

一人のおんなのこ、あきが。

かのじょのぬいぐるみ(自分で歩くしはなしもできる)こんを連れ、おばあちゃんの家へ一人旅をする、というおはなし。

このこん、というのがくせ者で。

だいじょうぶ、だいじょうぶ、なんて笑いながら。
あらゆるところでトラブルを引き寄せ。
ひとりと、いっぴきは色々苦労をしながらゴールとなるおばあちゃんの家を目指すのだ。

そのおはなしで。

列車が駅に停まっている間に、お弁当を買いに行ったこんが、帰り際、扉にしっぽをはさまれ身動きがとれなくなってしまったために。ふたりでそこへ座りこみお弁当を食べる、というワンシーンがあって。

お得意の、だいじょうぶ、だいじょうぶをうたうようにこんは、繰り返す。
端からみるとちっともだいじょうぶで、ないのに。

前に、母は。その可愛らしいかれらをつかまえて
「あのおはなしって、ほんとうは。あきがぬいぐるみを連れて歩きながらそこら中にひっかけてまわっているだけよね」なんて夢も希望もない見解を語ったのだけれど。

出発早々、違う方向の電車をつかまえ、遅れを取り戻そうと乗り込んだ特急ではるか甲府まで缶づめにされ、何年かぶりの電車酔いに悩まされながら座り込んだわたしは。たしかに、“こん”なしでもいろいろやらかせることに気がつき。くすくすと笑う。

列車から解放され外にでた、わたしは。
きな粉をゆびさきで散らしながら信玄餅をいただき、行きにちっとも楽しめなかった景色をみつめる。

早咲きの、秋桜は。行く先々で風に、揺れる。
はなびらだけ、ひかりをまとってぼんやりと雨を。あめをはじく。

小ぶりのひまわりは、束になって輪になって。
たいようの代わりみたいにわらう。
そういえばこの夏はまだ。
外で、燦々と陽を浴びて立つ向日葵を目にしていなかったっけ、とおもう。

車窓から見上げても。裾野しかみえないほど高く空へとそびえる山間を、すりぬけるよに走り抜けてく、電車。

ぶどう畑は、雲の中へとつづき。
目に飛びこむのは、欄干の、赤。

川のはじまりのような小川に、
飛沫をあげて岩を渡る清水、
そして淀んだ色をしているのは沼。

それらを横目に、電車は去ってゆく。
流れるように、して。

ところどころで目に飛びこんでくるのは。
こころ洗われるような、水田のみどりで。
うつくしく整えられ四角に切りとられた地に。青々と健やかに天を目指しほぼ均一に生い茂る稲。

乗りかえて乗りこんだ、ちいさな、列車は。
急行、という名を冠しながらもゆっくりと進む、二両電車。

雨足は弱まってゆく。
雲のうえへ、うえへとのぼっていっているから。

住宅街は、まばらになっていく。
どこまでも、追いかけてくるのは田んぼ。

日本から、人がいなくなってしまったあとに、残るのは森でなく、水田がいい。
と。声には出さずくちでころがす。

夢にまでみた、湖のうえを。

音もなく、風がふく。

やわらかに額を、撫でてゆくわけでも、叩きつけるようでもなく。

ただ風は、風として。みずを渡ってこちら側へとやってくる。

風が吹いた、と感じるのではなくわたしは。

風が。

行ってしまった、とおもう。

草むらでは、大きな魚の屍体をみつけ。
わたしはびくりと後ずさる。
も一度、遠くから、それを思い描くようにして目を凝らす。

よこでは鴨が、のんきに水に嘴を潜らせたりなどしてあそぶ。

湖をぼんやりと眺めながら。
ふかく濃く押しつぶされた緑は、やがてあおに変わることを知る。

だからこの色を。

群青、と呼ぶのかもしれない、なんてひとりごちる。

遠くの、山の裾も。深い青をしていた。

紫陽花が、時を忘れたように咲く。

蝉のこえひとつ、聴こえない。

秋がそこへ来たのか、それとも夏を。
忘れてしまった、だけなのか。

千と千尋の神隠しにでてくるようなトンネルを抜け、幾台もの車が、向こう側を目指す。
けれどそれらが、辿りついたかどうかは知らない。

横道にそれ、訪れた寺では。
竜の口から、清水が流れ、小鳥がそこで、戯れるように水浴びをする。
冷たさに驚いたように、羽撃く、小鳥。
何度も繰り返しているのに、いつも驚きからはじまるのはきっと。彼等の生が一瞬の結晶だから、なのだろう。

帰り道。全ての体力を使い果たした私は。
昏々と眠り。

次はどこへゆこう、などと考えながら階段をのぼり。

何食わぬ顔、いつもと変わらぬ声で。

ただいま、を告げる。